作品名:EyesofJewduom
元ネタ:秘封倶楽部
公開日:20210920
公開場所:Pixiv小説にて再
頒布イベント:科学世紀のカフェテラス10※延期
掲載誌:秘封倶楽部民間伝承合同企画「博物誌の取材手帖」
娘は〈監視塔〉の前へ度々足を運び、世界オーロラの来光を待ち侘びていた。それは夜半に至り娘の期待通りに、天蓋を荒々しい息で巻くように揺らして、角砂糖の煌めきを空に降らせて現れたのだ。その砂糖光の輪郭は単一の色合いではなく瑞々しく豊潤な色彩をまとい、一方でその中央に透ける煌めきやかな核は炎の様に姿を揺らしながら、空一面をまるでシャーレに無数の腕を伸ばしたコロニー同士の躍動のように、脈打ち、揺れ、吐息して抱き、空から地上を望んでいた:目だ。天に張り付いた輝きと裏腹に、しかしその悠然とした体躯は〈監視塔〉の前に広がるなだらかな丘陵に一文字を描いていた。ここはモレヤの山の模造品、虚像であり欺瞞であり、だが愛の姿は真実である。
彼女の期待は〈監視塔〉の前にて、湯気上る熱い肉の塊たる身体を不規則に揺れるように身を捩らせながら跳ねる―いやこれは、踊っているのだ―一本足の存在との再なる邂逅へのものであった;それは眇でもあり、よく見れば雄牛を扁平にした頭のようなものが肉塊の上に乗っているようにも見える;恐らくそれは、山だった。娘の期待は半分は望んだ通りとなり、もう半分は異なった。こうではない:娘は怒りや落胆ではなく、唯一途な悲しみに沈む右心房の軋みを、左の乳房で意識の隅へと追いやった。群れなす砂糖光の触腕が鈍く発光し脈打ちながら夜を抱き、燦然たる音が大河ルミネッセンスとなってこの枯れ果てた痩せ地を流れて潤すように、その一本足に眇の備わる肉塊が謡い踊る空間には、しかし時間が捩れて横たわっていたのだ。愛しい者の踊る姿はなくそれは横たわっていたが、娘にとってはそれはさしたる問題ではなかった;待ち侘びて出会えないまま長い時間を、せめて朽ちぬようにと耐え待っていたのだから。娘はしばしそれを見上げていたが、歓喜に打ち震える身体を自らの腕で縛り上げることで精一杯だった。愛に、一片の偽りさえ、ない。
おどろおどろしく泣き叫ぶような山鳴りが色彩の雨を呼んでいる。遥か東方に神の山を虚像し欺瞞したなれの果てたる山体が、むせび泣いているかのようだ。暗紫の彩雲、神経を削ぐ風音、祝福の黒雨;そしてその山鳴りこそ娘の前で横たわる眇の肉の亡き声であった。娘が高鳴る鼓動を抑え切れず感極まった末に眇の前へ舞出てはたと驚いたのは、特徴的に巨大なその眇は本来確かに双眸を備えていたが片方を失っているのだろう痕跡だった。遠目に見ていた憧れのひとに寄り添いその距離で初めて気付くものへの、印象の瓦解と愛の再生、娘に訪れたのはそれであった。彼に残った方の瞼もまた開き切っていないことが、さしもの娘にも見て取れた。〈監視塔〉が、頻りに警告しているのが聞こえた。だが〈監視塔〉にはそれ以上の力がないことも、娘はよく識っていた。それに比べて、雄々しく脈打ち、蠍色の筋肉が剥き出しに躍動して熔鉄なる熱を帯びる彼の方が余程、娘を恍惚へと拐うのだ。賛美の踊りをやめ力なく横臥するだけの存在であってもその壮さと栄光は揺らがない。娘が馨しく流れ出る肉塊に触れると、稲光が二頭曳きの戦車になって世界中を走り抜け、やがて脳髄へ雪崩込んで来る頃には綺羅びやかな世界色を帯びた情報の直列に姿を変え、娘を法悦の縄で締め上げた。鞴を打ち力強く七色の血液を押し流し続ける肉体。吹き出す潮は力強く、隆々と岩くれたった体には、何故このような憂き目にあるのか問わずにいられなかった。嗚、愛おしい。開きかけたまま開き終えることなく星霜を留まり続ける眇が娘を認めると、娘は獣の如くに声を上げ、達した。
夢だ:娘は歓喜の絶頂に震えて失禁しながら、そう思った―いや、願ったかもしれない。いっそこの枯れ果てた痩せ地に横臥わり身を捩る時間に喰われてしまうのなら、未練する細糸も見事断ち切って連れて行って貰えるのに。そして娘の願いは開き終えない眇へと委ねられた。〈監視塔〉は無数に星座をなす色彩光の群れを撃ち落とすことができない、娘にとっては、いや一本足で眇の肉塊にとっても、自らを頌歌する触腕の空が光の粒を降らせ続けることと、監視者の不達は好都合だった。片目を綴じられ、山を刳り貫いてぽつかりと開いた口の中に残る眇が収まっている。娘の摂理を見抜いた瞳はもはや、娘の正気を湯殿の山から返すことはなかった。大山祇に同化させられ残神はもはや、グロテスクな形骸となっている、それでも尚これほど、なのだ。
正気を失ったにせよ娘の精神は、不思議な知性にまるで水を吸った海綿がそうであるように柔らかくそしてふくよかに豊かさを以て立ち上がっていた。それは星と山との連絡経路に鏤められた時間概念を失った知識群を招いて娘の脳を食い荒らしていったらしい。娘の頭蓋に反響する福音の鐘音は凡庸な理性を介して形容するのなら紙魚が書物を食う音であり、蛆が生きた肉を貪る音であり、頭蓋と新皮質の隙間を線虫が這い回る音であり、肝臓で孵化した虫体が肝臓を穴だらけに変えていく音であり、水槽の中のテトラが茹で上がる世界を怨嗟する音であり、この世界を改竄するペンがカミの上を走る音だったが、そうして生じた脳の隙間に、肝臓の穴に、神とカミの間隙に向けて代わりに充溢したのは、この世の摂理を説明しうる眩く美しいプロセス即ち神性魔術の根本であった。娘は巫となったのである。娘は神におかされたのである。湯殿山を下り漏矢山への、そしてシオンの地への帰還を悲願する者に女は見初められていた。
そうして幾日かの永遠が娘のアストラル体を掠め通り加熱済バタアナイフが脂をやわらかく切り裂くが如くにしていた或る蒸し暑い夜、狭蝿がしい女が二人、〈監視塔〉が見下ろすなだらかな色の漣を切り裂いて立ち入ってきた。彼との聖域を侵犯し五色の人と四つの力を統一する御子であり経路である彼とのランデブーポイントに、無視できぬ形で介入してきたのだ:度し難い。
折り畳まれた呻き声が石段を転げ落ち、鳥居の下に斃れては再び石段を登って、再び転げ落ちているのを見た。鬱蒼と深く茂る緑色の時間が呻き声の谷間から触手を伸ばし、ゆらと光っている。その地は依然として捻じくれた木枝の重なりが外の空間の侵入を妨げている、まだここは山上にある地底だった。崇敬者の幽い社の末路とはこのようなものだ;だがそれが無ではないことを、然るにこの神はまだ虫の息なれど死していないことを、朽ちかけた建材、色を失い無力に横たわる拝殿と、もはや声の鳴らぬほど錆びて割れた本坪鈴が、女二人へと警告するように物語っていた。招かれざる客をそれらの声は:時間は:色彩と輝きは、捕らまえようとする;だが無駄だった。そうした意思の群れを二人の女はどこか冷めた目で見やり、嗤うように素通りしていく。声を無視し、時間を踏みにじり、色彩と輝きを塗り潰すように、女達は土足で山へ踏み入ったのだ。私と彼の世界を破壊する気だ:娘の怒りは二人へ、殊更その片割れのベキシェを着崩したような冒涜的な出で立ちの女に向けられていた。女は警告の口を開く。
神を愚弄する不届きな目で、その名を呼んだ。それは真の名ではない、だが彼を示すにはその記号を用いるしかないことを娘も承知していた。娘は愛おしい彼の名を呼ぶのを避けているが、それでも名詞として表象されねばならない時には、そうしている。彼の名は、本来発音できないのだから。娘は二人の女に敵意を宣言した、ここを去れと、宣告した。だが二人組の冒涜者は娘を嗤い、それを無視して眇の肉体が眠る揺籃場へ至る。この光景を女は、神との交わいの中での血肉と霊体の交感によって、愛おしい主の記憶から伝染する形で受け取っていた。このようにして安住の時間は幾度も外なる者の侵入によって犯され穢され、破壊されて失われたことを、女は教えられていた。主の見下ろされる、あの山から。
娘は愛の対象を護るべく二人の侵入者を誅すべく内接六芒星魔法円を結んで大いなる存在への信仰を叫び、祈り、求めた;娘は己が処女の血さえ彼に捧げたのだ、そのイニシエーションは愛の証明でもあり、強靭たる秘儀魔術であったが、それを以てしても忌まわしい異教の女二人を止めることは叶わなかった。眇の悪夢が横臥わり開かぬ隻眼を開き切れぬまま星霜の時を震えて浪費し、網絡する触腕の星座を取り戻せぬままでいる間、その空と星と夜の雨と豊潤な色彩光は侵入者の片割れの手に落ちていたのだ。せせら笑うが如くに、シルクハットに頭部を齧らせた魔女が〈監視塔〉に向けて、まるで幾万の投石兵への投擲指示を軽々しくに行うような仕草を掌だけで見せると刹那、星々は古の主にではなく堕落したベキシェの魔女に従ったのである;光星の俯瞰が、時空を糾弾する。蛇体なす眇の肉は糺され、栄光する霊漿を無残に撒き散らしながら裂け、潰れ、解かれた。
じゅーどのさま!愛しき主を娘は泣き叫び、彼の傍らへ駆け寄った。女の片割れがそれを制止しようとしたが:っ!:娘の決意は金剛石の有様で、予想外に発揮された帯電する腕力を前にして、青い目の魔女は娘を取り逃した。隻眼の神の震える肉躰へ全身で寄り添う娘、中毒性の霊漿液を流す肌に口付けて女二人へ、泣きながら憎しみを叫んだ:私から世界を奪うのか、お前達は何もしてくれないくせに、正しさで私を殺すのか。そして娘は倒れたまゝの眼神の、その眼の前へと飛び出した。その瞼に備わる四つの把手へ迷いなく手をかける。力を込め、それを動かそうとする。綴じられたままの大天目をいざ、開かせようとする。四つの把手を押し開けるなど人の為せる業ではない。それは旧き神の選んだ巫にのみ与えられる、大終結の招来。娘には今、それが出来ようとしていた。
眇の瞼に備わった四つ把手とは世界を統一するただ一つの力を分解した四つの力の比喩である。四つ把手を持ち上げることは、極めて根源に近いその力を随意に操作することの比喩である。そして四つの力を操作することが何の比喩であるか、星の庇護を簒奪した現代の魔女は殊更よく理解していた;故に、恐怖した。それ迄の余裕と不敵を後悔しながら、片割れの女の手を引いて走り出す。引き攣る声で叫ぶ:逃げて!一方の娘は笑っていた。勝ち誇ったように狂ったように、愛しい唯一の瞳の前に立ち、この世の摂理を以て遍く見渡してそれを見抜き支配するその目が決して破れないことを、まさに今腐り溶け落ち行く真夜の頭蓋に向けて、勝利を確信して高らか謳った。己が五体を力の限りに伸ばし、眇の開き切らぬ瞼を把持してそれを押し上げる。
よ!足長の五体を擲つように星型に伸ばし瞼を押し広げた娘は、叫んだ。眇から放たれた毒の光によって辺り一帯の空気は火花放電を散らしてちりざわつき、光に照らされた山肌は火もないのに赤熱して溶け落ちた;熱に晒されなかった草木も、毒に病んだように赤褐色に染まり即座に枯れ崩れていく。四つの把手を押し広げた娘は:愛しい者の眼前へ躍り出た娘は:光の根本に我が身を晒した娘は:眼前に摂理と愛と世界を謳い笑っていた娘は、須臾間の僅かに人の形の影を残して、蒸発した。その瞳と視線の前に姿を晒した瞬間の娘の表情たるや夜闇を吐出す山際を突破って殺し光の再来を告げる太陽を見るヒトの原初の喜悦と同じ色をしていた。
女は想いを遂げたのである。だが仕損じた。大山祇によって湯殿山に囚われたJew殿は、洩レヤ山への帰還を再び先延ばしにせざるを得なくなった。再び大山祇の胎内に収まりグロテスクな姿を癒す必要があったからだ。
後日、辛うじて毒の聖光を逃れた冒涜の女達が〈監視塔〉前に広がるなだらかな丘陵地帯を訪れると、〈監視塔〉は根本から抉られて赤茶けた大地に崩折れていた;それはその役目を終えたと言えるだろう。娘の姿はない。〈監視塔〉を打倒した隻腕一本足眇の肉塊はしかし、不正突然変異によって予定外に出現したミュータンス巫により再生不完全な加速器の使用を強いられ破損し致命的な損壊を受けて、死の淵を彷徨っていた。ベキシェの星魔女の傍らで一言も発さぬまま付き添っていた印欧人の娘が、鎌の冷徹を宿す三日月の口を開いて言った:逃げ落ちなさい零落した神、諏訪で武蔵で常陸で敗れ重ねたシナイの山の聖霊、この国に唯一つの全能神はそぐわないの。
女の言葉を理解したのかそれ以外か、眇は僅かに震えて反応した;碧眼の女悪魔はその眇なる肉神の名前を、知っているのだ。山の腹に眇を抱いた摂理の魔眼は、隻腕一本脚眇なる肉神は、北へ、北へ、界と界とが結ぶ最後の地へ、蛇の如く針路を取った。消えゆく神に永遠はないと知れている、それでもニンゲンの大凡想像しうる時間のその外側に開始と終了があることには変わりなかっただろう。然るに、この異変は一寸ばかり休息の時を待ち、一時停止しているにすぎないのだ。いずれ機が満ちれば再び星は歌い、巫が現れ、横たわる悪夢は旧なる神性を取り戻し、摂理の瞳は世を照らさんと蠢くに違いない。
魔女二人にとってはしかし、娘を使用不能としただけで十分な戦果と言えた、だが二人の女は同時に痛切に、こうも思うのだ:まるで深刻に錆び付いた螺子が腐食の進行故にその錆を落とせないのと同じように、仮にその錆を無理に落とせば螺子そのものを破損してしまうように、その螺子がこの世界と理性と自身の意識を辛うじて繋ぎ止める物であるかのように、蒸発する寸前の娘の恍惚の手本の如き悍ましい程の幸福の表情に脳髄の深刻な箇所が冒されてしまったと。それは、目を閉じても耳を塞いでも、まるで遍在するように鮮明に脳裏へ描かれるのだ。
約束の山の頂から、世界を照らす摂理の目を持つ旧神を従えて、この世を睥睨せんと笑う、あの娘の姿が。